〔温泉津焼 椿窯〕 荒尾 寛さん~伝統工芸の世界でも可能性を拡げる回帰水~

 

 

石見(いわみ)銀山の湯治場として賑わった温泉津(ゆのつ)温泉。温泉街を少し登ると山の斜面に大きな登り窯が見えてきます。江戸時代に始まった温泉津焼の窯元は現在3軒。そのひとつが荒尾寛さんの(有)椿窯です。荒尾さんと『回帰水』のおつき合いは長く、かれこれ20年以上になるかと。回帰水の力をやきものに生かせないかと言われ、試行錯誤を繰り返した荒尾さんは「土と水を合わせて、ある程度熟成させる。不思議なもので、粘土というのは寝かせるほど細工もしやすいし、何と言うか良い情報を獲得するんです。そうして回帰水で作った器は、お酒にしろお茶にしろ入れたものをおいしくする。以前GPのメンバーさん達に、ぶっつけ本番でお酒の飲み比べをしてもらったのですが、10人が10人、回帰水を使って焼いた器の方がおいしいと。体に悪い成分も消してくれるようで悪酔いもしませんしね」。以来、粘土から釉薬(うわぐすり)まで全てに回帰水が使われています。

 

約三百年も続く陶家に生まれた荒尾さんですが、実はこの温泉津の生まれではありません。石見銀山で採掘された銀の積み出し港として栄えた温泉津はまた、当時の物流の要であった北前船の寄港地でもありました。この北前船で全国に運ばれて、重宝されたのが温泉津で作られた「はんど(水がめ)」です。水道の整備されていなかった時代、大切な水の汲み置き用として暮しの必需品でした。しかし船から鉄道へ輸送の主役が替わり、水道も普及してはんどの需要は一気に衰退。窯元は次々と廃業に追い込まれ、「廃村宣言」が出されるまでに。この危機を救ったのが、民芸運動を推進していた近代陶芸の巨匠・河井寛次郎です。島根県安来市に生まれた寛次郎は京都五条坂に窯を構えていましたが、故郷島根の窯業の窮状を何とかしたいと愛弟子に復興を託したのです。その人が荒尾常蔵、寛さんの父親です。師の願いを受けた父と共に、京都から温泉津に移り窯を開いた時、荒尾さんは28歳。この地で陶工として生きることを決めました。窯の名前は父も自分も好きだった椿から。

 

「父は職人気質というか、技は盗むものだ、習うものじゃないという考えで、私が徹夜で50個程の抹茶茶碗を作り、乾かしていた時のこと、朝方ひと休みしてから見ると、茶碗の縁が皆欠いてあるんです。使いものにならないようにわざと、これはダメだと。その時、真似では親父を超えられない。真似ではない自分の仕事をしようと、開き直ったわけです」。そんな思いで焼きあげた茶碗がひとつ行方不明に。後で知ったのですが、父が自分の部屋に持ち帰って「息子がこれだけのものを作るようになった」と、客に茶を点てて自慢していたと。現在、二人の息子さんが一緒に作陶していますが、荒尾さんもまた「手とり足とり教えるものではない」との方針。「まあ、親父のように縁を欠くようなことはしませんが……かなりこたえましたからね(笑)」。

 

荒尾さんが半世紀も描き続けている椿の紋様。その椿には、すべての人が健やかで幸せであるようにとの祈りを込めて心の字が紋様化されて添えられています。寛次郎直伝の釉薬の調合で生み出される辰砂(しんしゃ)(赤)、青磁(白)、呉須(藍)の3色に、最近息子さんが調合した水色と緑色の呉須の新しい色が加わって新旧5色。これらのシンボルと共に先人の様々な思いは、しっかりと次の世代へ受け継がれています。

 

●島根県大田市温泉津町温泉津イ12—2

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2017年05月21日